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フジコンのルーツ
フジオートは様々な運転補助装置を開発してきました。
それは「足がなくても運転したい」という夢を実現すべく努力した一人の人間から始まりました。

藤森善一  1915(大正4)年−1986(昭和61)年
藤森善一

昭和 28 年 5 月 25 日未明路肩で車を修理中、居眠り運転の車に激突されて重傷を負い、両足を失いました。

退院後、雑貨や菓子類の販売をやってはみたもののうまくいきません。バス、運送会社のトラック、郵便逓送、タクシーと昭和11年の免許取得以来、自動車の運転に関わる仕事ばかりをやってきた藤森にとって、どうしても自動車の運転に関わる仕事がしたかったのでしょう、昭和 29 年 6 月自動車運転に挑戦しました。

当時はクラッチ車しかありませんでしたので、アクセル・ブレーキ・クラッチペダルを足で操作しながら、ハンドルとシフトレバーを両手で操作できなければ運転はできません。両足がない藤森は譲り受けたダッジブラザーズを改造、右手でクラッチとブレーキ、残っていた太ももでアクセルを踏む装置を考案しました。(注1※図1)

(図1)
(図1)

右手のレバーを下に押すとクラッチが切れ、半クラッチを維持できるところでフックに引っかけて固定、その間にシフトチェンジを行います。再度レバーを持って元の位置に戻しながら太ももでアクセルを踏みます。レバーはクラッチが完全に切れるまで下に押し続ければブレーキがかかるようになっています。確認できる資料では、この装置が最初の手動運転装置、運転補助装置といえそうです。

事故前に取得していた免許の有効期間が切れる前、自動車運転試験場に通って装置のついた車を持ち込んで実際に運転して見せましたが、道路交通法が壁となって昭和 31 年に失効してしまいました。しかし、自動車への想いは断ち切れるはずもなく、自ら自動車を運転できなくなっても家族に運転させて仕事を続ける一方、警察や陸運局へ何度も通って免許制度の改正を訴え続けました。

昭和 35 年 12 月、道路交通法が改正されて身障者にも運転免許取得の道が開かれました。藤森は我先にと免許を取得、「長い冬の生活から、春がきたみたいだった」(注2)と語っていたそうです。

この時期になるとノークラッチ車が登場し、身障者にとってさらに運転しやすい環境が整ってきました。藤森自身もそれまでは太ももを使って運転をしてきましたが、両手だけで運転できる装置を作ります。(写真1、注1※図2)ハンドルの左に伸びている「棒」でブレーキを押し、「ワイヤー」でアクセルを引く、現在の手動運転装置に近い形になってきました。

(写真1)
 図2(昭和38年4月の装置)
(写真1)
図2(昭和38年4月の装置)


藤森は自由に自動車を運転できる喜びをかみしめる一方で、近所や知り合いにいる身障者に声をかけては自分の自動車に乗せてみる度に、皆生き返ったかのような表情を浮かべるのを見て、「両足のない自分の肉体を試験台にし、まず体力と技術を試し」、「それを公開して、『ごらんなさい。身体障害者だって、やればできるじゃありませんか』ということを一般の人びとに知ってもらうと同時に、同じような障害に悩んでいる人びとを勇気づける」(注3)ため、自動車による日本一周を計画しました。(注3※写真2)


(写真2)
(写真2)


昭和 37 年 7 月、全6,370km、28日間の旅を終えてみると、多くのメディアに取り上げられたこともあって、免許を取りたいという人たちからの問い合わせが殺到します。日本一周を通じて、多くの人々に出会い励まされながらも、世間が持っていた「障害」に対する考え方にショックを受けた藤森は、体に不自由のある人たちが免許を取得することのできる社会を目指して努力することを決意しました。同年11月に現在の長野県小布施町にりんご畑を開拓して練習場にした教習所と作業場を開設しました。(写真3)

(写真3)
 (写真4 当時の教習風景)
(写真3)
(写真4 当時の教習風景)

初期の教習車は、愛知機械工業の「グッピー」(写真5)や富士重工業の「スバル360」(写真6)、日産の「ブルーバード」(写真7)など排気量が360ccのものばかり。これで、長野から東京の府中試験場まで峠を越えて免許試験を受けに行ったそうです。

(写真5)
(写真6)
 (写真7)
(写真5)
(写真6)
(写真7)

国内初の身障者専門の自動車教習所なので、全ての人にそれぞれの体に合わせた装置を作って取り付けなければなりません。教習生とコミュニケーションをとりながら藤森自ら装置を考案して取り付け作業を行っていました。(写真8)

(写真8)
(写真8)


昭和 38 年 7 月 (写真9) と 47 年 9 月 (写真10) には、再び自動車による日本一周を行います。

(写真9)
(写真10)
(写真9)
(写真10)

藤森にとって自動車の運転というのは、純粋な楽しみでした。免許取得を訴え続けたのも、動機は自らの免許取得にあったのかも知れません。それがいつしか、身障者専門の教習所をつくって人びとを集め、様々な協会の設立のお手伝いをし、身障者雇用を目的としたセンター設立へと発展していきました。

そうした中、教習生一人一人に合わせた装置作りは、教習生の増加や多様さから昭和45年3月に教習所から独立して藤森式自動車運転装置研究所となり、その3年後にフジオートとして独立、昭和 50 年に法人として有限会社フジオートとなりました。

フジオートは、藤森が行ってきた「一人一人に合わせた装置作り」という理念を継承し続けています。


※注1 『理学療法と作業療法』19巻6号 医学書院 1985年6月 p.377-382  
  注2 『ここにこんな人がシリーズ@ 藤森善一』現代史刊行会 昭和51年7月 p.6  
  注3 『身障者運転日本一周 施設激励から帰って』藤森善一著 日本身障者輪友会 昭和37年10月 p.5